遂に完成!編集部の机の上には長年の仕事の成果が積み上げられ、色とりどりのテープが張られた紙の山に圧倒される。数日前まで「和独大辞典」第1巻の最終編集が、ここで狂気のように行われてきたのである。第1巻のAからIまでで2,544頁にも及ぶ第1巻が遂に完成し、印刷される。1998年に着手し、全巻で12万余の見出し語を収録する大辞典は、これから3年がかりで続巻が出版される。「和独大辞典」制作プロジェクトは膨大化し、発行者の立場から現時点で一部発行が必然になったと、出版者ペーター・カピッツァ氏は述べる。安堵の色そして誇りが、博士号と大学教授資格を取得している氏の顔にはっきりと窺がえる。「もちろん、インターネットにも沢山の和独辞書はあるが、私たちが目指しているのはひとつひとつの単語にひとつひとつの訳以上のものを提供することです」と強調する。専門用語であろうとスラングであろうと、文学作品からの引用例文によってその意義が列挙されている、と。ドイツに関心をもつ日本の多くの人々にとっては、データ・バンクの〔クリック・アンド・ゴー〕は十分かつ満足し得るものではないことは明らかで、和独辞書の出版は意義あるものと確信している、とこの文学研究者である氏は言う。
日本人女性と結婚している出版者カピッツァ氏は、ヨーロッパと東アジアの文化の仲介者といえる。60年代に27歳で、初めて独語・独文の教師として日本に赴任。東京大学講師として日本に滞在後、1980年に家族と共にドイツに戻り、ミュンヘンにユディツィウム出版社を設立した。「一朝にして、まったく異なった立場に立ちました。見積もり、ソフト・ウエア、事前の資金調達など職人的な仕事をすることになったのです。長年学者として机に座っていると、出版関係の仕事は魅力ある仕事でした」と氏は言う。会社立上げの発端は、ドイツ語の諸新聞に載せられている言語・文学関係の情報・批評を紹介する月刊誌 “Fachdienst Germanistik” である。その後、外国語としてのドイツ語、異文化間の研究などの分野で雑誌、双書、書籍を出版。80年代に入りドイツで日本への関心が高まってきたとき、日本の音楽評論の第一人者である吉田秀和氏の夫人、翻訳者のバーバラ・吉田クラフトさんによる現代日本女性作家の小説集『Das elfte Haus』を87年に出版し、成功を収めた。Deutscher Taschenbuch Verlagは『Das elfte Haus』を翻訳権取得版としてそのプログラムに収録している。『Das elfte Haus』によって、出版社は一挙に日本と関係を深めることになる。
OAG (ドイツ東洋文化研究会)とDIJ (ドイツ ー 日本研究所)との活発な共同・協力の始まりである。出版プログラムの構成と拡充にとって決定的だったのは、出版者カピッツァ氏の学術上の経歴であった。「私が、学術出身であることから、信用を受けたのでしょう」と氏は思っている。さらに、日本・中国・韓国の現代作家の作品を紹介する、年2回発行の雑誌『Hefte für ostasiatische Literatur』の出版を引き受け、また、自身の編集による資料集『Japan in Europa』を刊行するなど、いろいろな観点で東アジア学に貢献してきた。現在、その出版社発行の書籍のなかで、日本関係書籍はほぼ45パーセントを占める。「日本に関心があるひとは、わが出版社の書籍や定期刊行物と無関係でいることができないでしょう」とカピッツァ氏は言う。しかし、ユディツィウム出版社の意欲的プログラムだけでは、金儲けはできない。「出版プログラムが意欲的になれば、それだけ資金も労力もかかります」。利益を上げるには、復刻権を譲渡することでその著書の出版部数の増加を狙い、ロングセラーとなるような、流行に左右されない入門書を出版することである。しかし、出版社が得た利益は即、愛好家版、例えば17世紀の学術研究を目的とした旅行者エンゲルベルト・ケンペルの著書の校訂版などの出版に充てられる。この6巻からなる、贅沢に作られた校訂版に関心をもつひとの数は限られているばかりか、この分野を専門とするひとに限定される。わが社発行の書籍の発行部数は書中の脚注の数とほぼ同じ、とカピッツァ氏は冗談を交えて言う。
出版社の従業員は5人、ほかに数人がフリーで働く。販売の仕事は、カピッツァ清子夫人が担当している。夫人は、ドイツでドイツ文学を勉学中にカピッツァ氏と知り合い、ふたりの息子を伴って氏の日本赴任に同伴した。当時、中部ヨーロッパの学者としての自覚を抱いて日本に赴いたが、日本では多くのことを学ばなければならなかった。また、妻といえども日本のことをすべて仲介してくれることはできない、と氏は回顧する。客員研究者であった氏は、日本の文化・社会を根本的に知ることになる。ふたりの息子は独日2カ国語で成長し、東京のドイツ人学校に通った。ふたりの幼少年期に過ごした日本への気持ちは、いまもって変わらない。パーカッション奏者のコスマスは東京に住み熱狂的な富士登山家で、登るたびに富士について新体験をするとのこと。写真家として国際的にも知られるエノはカメラを片手に再三再四、故郷の日本へ足を運ぶ。ふたりの息子も、父親と同様にふたつの文化の仲介者である。だが、「息子たちは、言葉と関係したくなかった。言葉と関連した職に就くことがいかに大変か、ふたりは感じ取っていたからでしょう」と、カピッツァ氏は冗談っぽい口調で言った。













