金曜日, 03.09.2010 08:27
 
 

地域

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ベルリン国際映画祭

シンボルは愛らしい熊

毎年2月、多くのスターや映画人、映画美術・マーケット関係者が一堂に会するベルリン国際映画祭が、華やかに幕を開ける。注目の的は、金熊賞は誰の手に渡るか、だ

文 ゲルハルト・ミッディング

1987年にヴィム・ヴェンダース監督が撮った映画『ベルリン・天使の詩』では、クルト・ボウ扮する老詩人ホメロスがベルリンの壁の周辺を歩き回って、ポツダム広場を探す。しかし、老詩人には見つけられない。「ここは、あんなににぎやかな場所だったというのに! 有名なカフェ『ヨスティ』があって、そこでお客たちは通行人を眺めて楽しんだものだが……」。いぶかしむ彼の目に見えるものといえば、荒れ果てた空き地ばかり……。2年後には「壁」が崩壊し、ポツダム広場の再開発が始まろうなどとは、当時は予想もつかぬことだった。再開発なった新市街地は、まだ周辺の都市風景に完全には溶け込んではいないかもしれない。しかし、明らかにかつての活気が蘇っている。いまなら、あのホメロスも「カフェ・ヨスティ」を見つけただろう。

映画が撮られた当時は、ベルリナーレ(ベルリン国際映画祭)がある日、しかもきっかり創設50年目の2000年に、ポツダム広場に会場を移して開催されようなどとは夢想だにできないことだった。壁で東西に分断されたベルリンで1951年に創設されたベルリナーレは、世界に向けたショーウィンドウ、東と西の交差点の役割を担ってきた。その歴史的な映画祭が、記念すべき年に掛け値なしのベルリンの中心地と専用の会場をいっぺんに手にしたのである。映画祭期間中は、メーン会場のベルリナーレ・パラストの前には真紅のカーペットが敷かれ、2月の約2週間、ベルリン都心部は完全に映画一色に塗りつぶされる。

再統一なったベルリンは、いまやベルリナーレ常連ゲストの観があるジョージ・グルーニーのようなハリウッド・スターたちの魅力的な目的地になった。08年の、監督デビューを果たしたばかりの歌手マドンナを招待するというアイデアは大当たりだった。コンペティション部門を始めとする多くの伝統的な部門は、ポツダム広場に面して立つ最新設備完備のシネマコンプレックス内に、それぞれ会場をもつ。そのうちのパノラマ部門は、メーンストリームの映画でも「作家の映画(Autorenfilm)」でも同じようにコンテストに出品できるというオープンなコンセプトが特色で、「ヤング・フォーラム」は発足から数十年間変わらず、前衛映画に活躍の場を提供してきた部門。また、レトロスペクティブ部門は、他の映画祭とは比較にならないほど映画の歴史を重要視する、ベルリナーレの姿勢を示している。映画祭と平行して開かれる「ヨーロピアン・フィルム・マーケット」は経済面での中核部分で、この商品見本市の規模はアメリカ、カンヌに次ぎ世界第3位。さらに、ベルリナーレは「児童映画」部門を通じて、将来の映画鑑賞者の育成にも力を注いでいる。

ニコニコムードの映画祭

たじたじとなるほどスケジュールの過密なベルリナーレは、関係者たちからは毎度「仕事、仕事の映画祭」と呼ばれてきた。ディーター・コスリックが02年にディレクターに就任すると、映画祭の重点はそれ以前とははっきり変わった。バーデン=ヴュルテンベルク州プフォルツハイム出身のコスリックは、ドイツの映画界では有能な「調整役」として知られてきた。広告業界での仕事を皮切りに、一時はハンブルク市長のスピーチライターや雑誌の編集長を務めたこともあり、ノルトライン=ヴェストファーレン州の映画助成団体の責任者の地位に就いてからは、州を魅力的な映画産業拠点に発展させることに大きな貢献をした。

ベルリナーレのトップとしては、コスリックのショーマスター的な資質は大いに役立った。彼はスピーチがうまく、座談会の司会などもしゃれを連発して、楽にやってのける。ただ、英語を話すことだけは昔から苦手で、このテーマになると笑いながら自嘲気味にさっとかわすのが常。ともかくも、コスリックはディレクターに就任するやいなや、優れた戦略家の才を存分に発揮してベルリナーレの大改造をやってのけた。また、断固たるドイツ映画の擁護者でもある彼は、粘り強い努力の末に「パースペクティブドイツ映画」という新部門も発足させた。ドイツの映画作家の作品のみを対象とするこの映画見本市は、年を追うごとに国際的な影響力を強めている。

コスリックはマーケティング分野で発揮した勘を、映画振興の分野でも大いに活かし、とくに若手の育成に力を入れる。「ベルリナーレ・タレント・キャンパス」は08年、すでに6回目が開催された(ボックス参照)。もうひとつの重要な企画は、ベルリナーレと連邦文化財団が共同で実施する助成プロジェクト「ワールド・シネマ基金」だ。基金の年間予算50万ユーロは、ラテンアメリカ、アフリカ、アジアの映画製作者が合作映画を製作したり、自らの映画を外国に配給するときの補助金として利用される。「シネマ基金」の助成を受けた映画のひとつであるパレスチナ人監督ハニ・アブ=アサドの『Paradise Now(パラダイス・ナウ)』は、05年のベルリナーレで見事「観客賞」を射止めただけでなく、多くの国際的な映画賞も受賞している。

これからも続く拡大路線

大規模な国際映画祭のなかでは、ベルリナーレは観客動員数の最も多い映画祭だ。「一般客」に売られる入場券の数は、年々増える一方である。出品作を上映する映画館は、部門に関わらずどこもほぼ満員の盛況で、この点ではライバルのカンヌやベネツィアの映画祭も太刀打ちできない。しかも、ベルリナーレで上映される作品の数も増える一方。作品数が増え続けるのを見越して「ヨーロピアン・フィルム・マーケット」の会場は、2年前に広々としたマルティン・グロピウス・バウに移されたのだが、ここも間もなく収容能力の限界に達するというありさまである。コスリックは始めのうち、華やかな商業性と芸術性のバランスをうまくとることに成功し、あのニコニコ顔で了解をとりつけるやり方は気難しい批評家連中の間でも評判が悪くなかった。ところが最近になって、「ベルリナーレは、やれテーマ別シリーズだのやれ有名俳優や有名監督特集だのを盛んに組んで、まるでフランチャイズ並みの規格・量産をしている」。「ベルリナーレはこのままでは『雑貨屋』になってしまう。何でも手に入るが、肝心の独自性や個性は何もないという店に」。などという、批判的な声も聞かれるようになってきた。

とはいえ、とくにこの数年、コンペティション部門でベルリナーレらしさをうかがわせるテーマ面の輪郭がはっきりしてきたことは確かだ。07年には、現代史――第二次世界大戦やホロコーストなど――が重点テーマとなっていたし、08年には子どもたちの運命に焦点を当てた作品の出品が多いことが目立った。受賞作を選ぶ審査委員会の決定は、しばしば大方の予想を裏切る。とくに女優のシャルロッテ・ランプリングや映画監督のコンスタンティン・コスタ=ガブラスのような個性の強い人物が審査委員長を務めた場合はそうで、ランプリングのときの06年にはボスニアの映画『Grbavica(Esmas Geheimnis)』が金熊賞に輝き、またコスタ=ラブラスのときの08年にはブラジルの犯罪告発映画『Tropa de Elite(エリート部隊)』が予想外の金熊賞受賞となった。「エリート部隊」の顕彰には異論も多かったものの、作品は十分受賞に値する秀作だったといえよう。そんなふうに、ベルリナーレは観客に新たな体験の地平を切り開いてくれ、かつて万国博覧会がそうであったように、他者や遠い国々の生活について様ざまなことを教えてくれるのである。

12.12.2008
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